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the end of world

山岳鉄道はいちだんと険しいところを通っているように見えた。はるか遠い昔のように思える。駅の近くの市場で出された甘すぎる紅茶を飲んでいたのが嘘のようだ。鉄道は山あいを縫うように走行し、その間、空から山の朝の光が降ってくるが、それが親しみではなく、天との境界を示すよそよそしさを持っていて、小さな恐怖心が僕を捉えていた。それでも僕が下界のターミナル駅で得たちいさなガイド用の冊子からすると、次の停車駅まではあと少し、たぶんもう小一時間で到着だ。そこでもう少しこの先の旅路について、何かはっきりしたことが考えられるかもしれない。

3週間ほど前、ホテルのコンピュータで自分宛ての電子メールを確認してみた。いくつかは簡単な返事を書き、いくつかはそのままにしておいた。また、いつか設備の整ったホテルに戻ったときに、返事が書けるかもしれない。僕は生ぬるいコカコーラを飲みながら、返事を書けない電子メールを開いて、しばらく考えていた。何をどう答えれば、このことを説明できるんだろう。それはたぶんこの旅ともっとも関係がないことのように思えた。

3年ほど前、僕が東京で買った鞄は街を歩くには不釣合な大きさで、一度も持ち出したことはなく、部屋のクローゼットの中に追いやられたままだった。なぜ鞄を買ったのか。この問いに答えられない人間は東京にはたくさんいる。鞄とはそういった種類の物なのだ。集めるつもりもなかった。何を入れるかを考えたこともなかった。鞄があり、語るべき多くのものをかかえたまま、それでもひとことも話すことなく、小さな店にしまわれている。ある日、たとえば雨の午後に、客が店に現れる。そして語るべき多くのものと語られぬ多くのものを交換するように取り引きが行われる。新しい鞄の持ち主もなぜ自分がそのような交換を行ったのか、言葉では説明できない。いつか鞄自身がそのことをはっきりと理解して、しかるべき場所へ、語るべきことを運ぶに違いない。

列車が停止すると色々なもの売りが窓や出入口から声を掛けてくる。この光景にもこの数駅ですっかり慣れっこになってしまった。水を売りにくるもの、簡単な食事や、お茶のようなものを売るもの。僕の窓にもひとりやってきて、しきりに窓を開けるように要求した。黒ずんだ赤の毛糸の帽子をかぶっているのは少年だった。少年は水のほかにもタバコや黒い飴状の麻薬も売っていた。窓越しに小さな匙のようなものでひとさし指をひと巻きさせて味見をさせた。僕はふわりと意識が軽く遠のくような感じがして、少年の顔がふたつになって見えるのをなんとか元に戻そうとりきんだ。少年は僕がポケットから紙幣をさぐっているのを見て、さらにもう一度指に飴の糸を巻き付けてサービスしようとした。僕はそれを断り、紙幣を渡し、少年から飴の入った小さな小瓶を受け取った。通貨はわからなくなっていた。表に書かれた絵と大きさとい色を覚えて、それを高い順に並べて管理するようになってから、もう数週間経った。しかし日常に使うのはほとんどが首の長い鳥の描かれた緑色の紙幣で、それがおそらく昼食代に相当する価値があるということも鉄道の売り子たちや食堂車での観察から学んだ。小瓶を緑紙幣2枚と交換、少年は歌うように独り言を言っていたが、紙幣を自分の服のポケットにしまうと、次の車両の出入口まで歩いて去っていった。そしてその出入口でも飴を匙に巻き付けては僕に対して行ったのと同じように乗客と交渉を始めた。僕は小瓶をしまい、座席へ戻った。発車まではまだ十分に時間がある。この山岳鉄道は発車前に手持ちのベルで激しく発車を知らせる。そのベルを持った車掌はまだ駅のベンチで横になったままだった。やがて彼が起き出して、ベルの手をにぎり、なにごとか、おそらく出発を知らせるメッセージを発しながら、激しくベルをならすはずだ。

いつしか旅の中で、持ち物を過剰に身につけたまま、それらをかばうようにして座っているので、体はふだんよりもずっと疲労してしまうことに気がついた。僕はたいがいのものを小さな旅行鞄に入れ、紙幣やIDは肌着の中に縫いつけたポケットにしまっていた。旅行鞄はチェーンロックをして、万が一座席で眠ってしまってもいいように対策していた。

眠りは浅かったような気もするし、自分が感じたよりも深かったのかも知れない。車窓からの風景は寒々とした山の風景だった。辺りには霧か雲か、白く冷たい煙りが巻いていた。ふと自分が旅の空だということを忘れて、夢を見ていた。目が覚めた時、僕が見知らぬ風景に囲まれていることに軽く衝撃を受けたが、次の瞬間には意識ははっきりとした。鞄を確認した。異常はなかった。念のため体に手を当てて、紙幣や旅券を確認した。これも異常はなかった。冷たい空気が流れ込んできた。たぶんこの冷気で目が覚めたんだろう。でもいったいこの違和感を道連れにどれだけきただろう。それでも旅は旅だった。それが日常からどれだけ離れていても、夢から覚めても、僕の地理的な移動はこの線路の先にあった。僕は窓から外をぼんやりと眺めた。標高どれくらいのところまで来たんだろう。

「世界の終わり」と男は言った。僕の座席までやってきた男は火の付いていないパイプを口にくわえていた。白髪の混じった顎髭をたっぷりとたくわた、皺の寄った浅黒い顔をした老人のような顔をした男だった。その男が英語をしゃべったということがうまく飲み込めなかったが、僕は男の言った言葉をはっきりと聞き取った。そして僕も繰り返した。「世界の終わり」

「次が終点です。御存じかな」老人は言った。「あなたは旅人でしょう。そしてここへは初めてやってきた」老人はパイプを手に取って僕を苦々しい表情で見つめた。そうです、初めてです。終点です、次の駅は。僕は戸惑ったが、老人の言葉に応じた。「世界の終わり」老人はもう一度そう言った。「次の駅は世界の終わりです」パイプに詰めるタバコを探しているようだった。僕は手持ちのタバコを持っていなかった。持っているのはさっき少年から買った麻薬の飴の瓶と山岳鉄道の冊子だけだった。僕は冊子を開いて終点の駅を探した。英語表記はなく、この土地の文字で書かれていたので、読むことができなかった。そしてその冊子を開いたまま老人に見せると、目を細めてしばらく冊子を見つづけた。「世界の終わり、地図の終わり」そう言うとすこし微笑んだように見えたが、錯覚かも知れなかった。老人はタバコを見付けられず、あきらめて、去ろうとした。「よかったら」僕は麻薬の飴の瓶の蓋を開け、すくってみる手真似をしてみせた。老人は今度ははっきりと笑顔になり、ありがとうと英語で言った。太いしっかりした小指の先で飴をすくい、口にふくんだ。「サンキュー、サンキュー、ベリーマッチ」男は礼を述べて車両を去っていった。

僕も麻薬の飴の瓶から小指の先で飴をすくってなめてみた。味は甘いだけの飴の味だった。山肌によりそうように列車は走っていた。そしていつしか信じられないくらい深い谷が眼下にひろがっていた。大きく弧を描くようにして走っている列車の出口から乗客たちが谷を覗き込んでいた。僕の乗っている車両には僕ひとりだけだった。列車は徐行していた。「世界の終わり」僕はひとりごちた。悲鳴がひびく。しばらくして乗客たちが通路を走ってゆく。やがて列車が止まる。深い谷の上に浮かんでいるようだ。僕は乗客たちが集まっているところに歩いてゆく。白人の観光客らしき男が興奮気味に連れの女に話しているのが聞こえる。「髭を生やした男が俺と話ている最中にとつぜん飛び降りたんだ」男は谷を覗き込んでから、首を振った。「どうかしてるよ。狂ってる。こんなところから飛び降りるなんて!」


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