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honey and clover(2)

鍵を託されて訪問した事務所の二階には、数枚ずつ重ねられ、壁に沿って立てかけられた絵がたくさんあった。僕は、誰かが、もしかするとレイコが、ここをアトリエとして使っているんだろうと推測した。床には大小のイーゼル二脚が据えられており、大きな方のイーゼルには何も乗っていなかったが、小さな方にはキャンバスが乗っていて、制作途中の絵が描かれている。僕はなんとなく戸惑っていた。突然日常から切り離され、夢と現実とがないまぜになったような空間に対峙するよう迫られている気分だった。僕は小さなキャンバスの前に立った。そこには自由に折り重なり、大胆に繋がれた線形によって、まだ人とも風景ともつかない何かが描かれようととしていた。人だとすれば誰なのか、風景だとすればどこなのか、僕はあれこれ思いを巡らせた。これがレイコが描いた絵なのだとしたら。彼女がここに現れたりするだろうか。変わった様子はなく、僕とレイコが会っていなかった長い時間は嘘のように繋がれ、常の声で挨拶を交わすのだとしたら。部屋の窓には全てカーテンが掛かっていた。外の強い夏の光がカーテンの向こうにぼおっと浮かんでいて、そこに木の枝が揺れる様子が音もなく投影されている。

部屋の中央に置かれた大きな作業台の上には、動物を象った紙細工やハニワのような人型の粘土細工が、無造作に置かれていた。それらの周りに小型ニッパーや変形した針金などの道具類、刃が出たままのカッターナイフやプラスチックの容器に入った糊、色や形が様々なペン、口が開いたままの鋏などが散らかっていて、まだまだ作業の途中、何人も手を触れてはならないような雰囲気が漂っていた。その他、紙焼きされた写真が数枚、封筒からはみ出したままテーブルに置かれていたり、デッサンや設計につかった方眼のノートが開かれたまま置かれていた。そこには人の顔の部分や建物の構造の細部がスケッチされていた。僕は壁に沿ってゆっくりと歩いていった。目が慣れ始め、色々の細部がたどれる気がした。時間はまだたっぷりある。

「アニエスはもう出て行ってしまいました」初老の紳士がドアに現れてこう言った。誰もいないと思いこんでいた僕はとっさのことに驚いて、おお、と声を上げて振り返った。紳士は慌てた僕を見て、やさしく微笑んだ。「アニエスはもうここにはいないんですよ」アニエス? 僕は自分の心臓が鳴るのを聞きながら、ドアに立つ老紳士が誰なのかを推測しようとしていた。白髪の髭が口の周りから顎まで伸びていて、細いシルバーフレームの丸眼鏡を掛けていた。眼鏡は老眼鏡かも知れなかった。以前会ったことがある誰かではなかった。いや、以前会ったことがある誰かで、僕が記憶していないだけなのかもしれなかった。誰だ。老紳士は自分を思いだしてくれない僕を哀れむかのように少し悲しい表情になり、やがて口を開いた。「彼女に彼女自身の自画像を依頼したんです。何枚でも好きなだけ、好きなように描いてくれて構わない。そう言ってありました。描いた自画像をすべて買い取る約束で」老紳士は僕の方を向いたままだった。悲しそうな表情が、ふと歪み、微笑に変わった。「どれも完成しませんでした」

「失礼ですが、どこかでお会いしていますか?」僕は何とか言葉を発した。「つまり、私と。以前、どこかで」「以前、どこかで会っているかも知れませんね。以前、どこかで会っているとすれば」老紳士は腕組みしていた手を一度ほどき、ドアに軽く体をもたれさせ、再び腕を組み直すと、右手を頬の辺りにやって、ゆっくりとため息をついた。そしてカーテンの掛かった明るい窓を見て、目を細めた。右手の薬指には黒く煤けた銀の大きな指輪をつけていた。右頬をゆっくりと撫でながら、僕の方に向き直ると親密さを込めた丁寧な口調で言った。「どうぞ。好きなだけ絵を見て頂いて構いません。いずれここも畳まなくてはならなくなるでしょうから」

僕は立て掛けられている絵を取り上げて手に持ち、眺めた。絵は、ほとんどデッサンの線だけが縦や横に重ねられただけだったり、赤や黒の絵の具が塗り重ねられただけだったり、構成やオブジェクトの位置を修正途中のままだったりした。続けて手にした一枚。自画像らしき絵が途中まで描かれている。その自画像の目は黒目ばかりで視線がどこにも定まっておらず、用途以上に巨大にした鼻はいびつにゆがみ、口は凶暴化した獣のそれのようだった。耳は人工物のように血の気がなく、顎は割れ、髭がちりばめられている。それぞれのパーツは危ういバランスで結合され、同時にそれぞれが完全に独立していた。僕は思わずため息をついた。変形の限りを尽くした人の顔だった。これが自画像として描いた彼女自身の顔なんだろうか。他にもいくつかの絵を取り出してみた。おなじような顔の絵が何枚かあった。いくつかは目や鼻が描かれておらず、耳が鋭く尖っていたり、歯が浮きだしていたり、顔の半分が煙となって消えてゆく瞬間が描かれていたりした。ここ数年、広告などで見てきた彼女の絵とはまったく異なっていると僕は感じた。彼女は、これらの絵をこのアトリエに来て、描き続けていたのだろうか。五年もの間、普段の仕事とは別に、この初老の紳士の依頼を受けて、自分の自画像を描くために、キャンバスに向かっていたのだろうか。

アニエスとはレイコのことでしょうか。僕は老紳士に聞いた。
「アニエスがあなたの思っているような人間であるか、私には断言できません」そう言うと、彼は立て掛けてあった小さな絵を一枚手に取って、愛おしげに目を細めた。「しかし、この絵を描いたのはアニエスです。アニエスがこのアトリエで、自分の自画像を描いていた、これは事実です。」男は深々とため息をついた。「しかもどの自画像も、途中で完成させることをやめているんです。サインも入れられていない。続きは絵を見る者によって手を加えられ、創作され、補われなくてはならない、とでも言うかのように。もし必要ならば絵の隅に自分でサインを入れなければならないんですよ。そこにいない彼女の代わりに」男は僕をまっすぐ見据えた。「そんな絵なんです」

レイコのことををどう思おうと、何かが変わるわけではない。何かの願いがかなうわけでもない。だからアニエスがレイコであっても、レイコがアニエスであっても、どうということはないはずだった。もちろんレイコがアニエスではなく、アニエスがレイコでないとしても事態は変わらない。そしてレイコもアニエスもどこかへ行ってしまったのだ。彼女は絵を残していったのだろうか。絵を捨てていったのだろうか。永遠に不要のものとして。
カーテンの向こうで木の影が音もなく揺れ続けていた。男はぽつりぽつりと思い出を語り出す。このアトリエ兼事務所を数年借り続けていること、自分は数週間に一度顔を出していたこと、そのときアニエスがいることもあったし、いないこともあったこと、絵画に囲まれ、時折は冗談を言い合い、夢のようにたのしい時間が過ぎていったこと。いくつかの古い絵のリメイクを試みたこと。確かに意欲的に仕事は進められていたが、徐々に難しい状況に陥っていったこと、技術は変更されアプローチもデッサンも道具もさんざん取り替えられていったこと、アイデアが浮かび、慎重に具体化させていったにもかかわらず、手に入ると思っていた形が、アニエスが欲していたものとは全く別物であると気づき、変更につぐ変更を繰り返したあげく、諦めざるを得ない制作が続いたこと、失敗する度に彼女は追い込まれていったこと、そんなことを気にしないで欲しいと何度も告げたが、彼女の気分を変えることは出来なかったこと、この半年はほとんど彼女を見かけなかったこと、そして数日前、全ての自画像の制作を放棄すると連絡があったこと、その時、アニエスはひどく落ち込んでいるようだったこと、声がかすかに震えていたこと、その時どこか外から電話を掛けてきていると感じたこと。絵のことは構わない。元気を出して。どこから。今どこから掛けてきているんだい。問いかけに答えはなかったこと。

老紳士は欲しければ好きなのを持って行って構わないと言った。頭では断ろうと思ったが、気がつくと、その時手にしていた絵を男に示し、ではこれを頂いてゆきます、と口にしていた。僕は机の上にあった空の紙袋に絵を入れるとアトリエを後にすることにした。去り際に、もしこの絵が惜しくなったら、僕に連絡して下さい。いつでもお返しします。それまでは僕が預かっておきます。そう宣告した。紳士はより一層皺を深く刻んで微笑んで頷いた。僕は自分の連絡先を手帳に書いて、ページを破った。切れ端をテーブルに置いて、おじぎをして、ドアを開けて外に出た。外階段を降りてゆく。くらくらするような夏の日差し。生と死が相克したするどい影。影の部分は死? それとも生? それは階段に映る自分の影。太陽の下で肉体にまとわりつく自分の分身。

午後四時。地下鉄を出て空を見ると君は変化に気がつく。アトリエを出たときには永遠のように輝いていた雲は少し沈んだ表情になっていて、死に瀕した猫の鳴き声のような風が吹き始めていた。足早に歩道を歩き、自分のマンションへ急ぐ。部屋に戻るころには明らかに雲行きが変わっている。部屋の中は薄暗く、床も壁もカーテンも家具も光を失って冷え始めている。カーテンを開ける。曇り空の下の沈鬱な風景。もう時間はそれほど残っていないだろう。君は壁のアナログ時計を見る。まったくおかしな時を指して、時計は止まっている。いつからだろう。絵の入った紙袋を床に置き、コンピューターの電源を入れる。ディスプレイに浮かんだ白い文字は現れた途端、一瞬水平方向にゆがむ。文字は猛然と行送りされ、流れては消えてゆく。いつもならログインを促すコロン付きの文字が現れるところだったが、今日は途中で文字の流れがせき止められてしまう。しばらく同じ文字列が現れては消え、消えては現れ、といった動作を繰り返す。やがてカーネルはパニック引き起こし完全に停止する。こんなことは何年ぶりだろう。ディスプレイは平然としている。まるで宇宙には酸素がないのでどうしようもありません、とでも言いたげに。確かにその通りなのだ。パニックの原因を示しているのかどうかわからないが、メモリ上の十六進のアドレスを一瞥して、君はすぐに諦める。君は立ち上がり、台所へ向かい冷蔵庫から缶ビール取り出して封を切る。圧縮した炭酸ガスが短く音を立てる。その場でひと口飲む。厳格に品質管理された日本製の缶ビールの味は狂いがない。まったく問題ない。缶ビールを机の上に置く。クローゼットの奥にしまいこんでいた工具箱を取り出し中を開ける。金槌を取り上げる。仕切りで区切られたスペースにあったネジや釘の中から適当な一本を見つける。金槌で賃貸マンションの壁に釘を打つ。紙袋からアニエスの自画像を取り出し、釘の頭にフレームにひっかけて壁に掛ける。絵の中の変形した顔は今、怒りに震えているように見える。同時に咽び泣いているようにも見える。そして君が表情を探るように見つめた途端、表情がなくなり、能面のようになって空間そのものを見つめ始める。君はカーテンを開け放った窓の外を見る。灰色の雲。もくもくとした排煙のような雲。暗い空が一瞬光で埋め尽くされる。続いて空を引き裂く音が君の全身を貫く。そして大粒の雨が地面に落ちて音を立て始める。屋根や庇も鳴り始める。君は煙を上げながら黒く塗りつぶされてゆくアスファルトの大地を見つめる。


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