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chamomileholic(1)

倉庫地帯にあるオフィスに着いたのは七時五分。いつものようにエレベーターで五階に上がり、セキュリティゲートをいくつか通過して、自分のデスクのあるセグメントへ。フロアを見渡すと、遠くに副室長が出社しているのが見える。マグカップを口元でゆっくり傾けながら、デスクに広げた新聞を読んでいる。副室長の背後には巨大なガラス窓、その向こうには隣の巨大倉庫や倉庫管理会社の事務所や埋め立て地が見える。副室長の他に管理部門の中堅社員Fの姿も見える。自席のコンピュータ用ディスプレイを眺めながている模様。副室長にしろFにしろ遠すぎて表情までは見て取れない。セグメント間を行ったり来たりするのに自転車があってもいいと思うくらいフロアは広い。もちろんご機嫌伺いにはるばる出社組のところに歩いてゆく気にはならない。僕もデスクにつくと、コンピュータの電源を入れ、むくんだような光の素子で明るくなってゆくディスプレイをぼんやり眺める。システムが起動し、ほどなくして準備完了の画面が表示される。ログオン。決まりきったいくつかの命令で決まりきったいくつかのプログラムを実行する。猛烈な勢いでスタックされてゆくメール、共有されたスケジュール、社内掲示板の内容、事務的な文言で書き連ねられたお知らせ、ごちゃごちゃとつけたされているコメント、ネットニュースなどをざっと確認する。おもむろにひきだしを開け、ナッツなしのチョコレートの包みをひと粒取り出し、包みを開け、煉瓦型のチョコレートを口に放り込む。リスト化されたトピックスが広がる画面を見続ける。リストの傍らには天気図。天気予報では東京は午後から雨。夕方の時間帯に雨マーク。僕は席を立つ。

ビルの地下にある七時から営業の売店で塩味のプレッツェルと生クリーム入りの缶コーヒーを買う。売店横のイートインスペースのスツールに腰掛ける。人気のないこの時間にあって、個人的なお気に入りの場所、オフホワイトの化粧板が貼り付けられた幅の狭いカウンター席だ。スツールに腰掛けると、ガラス張りの食堂がちょうど正面に見える。食堂は厨房だけに明かりが灯っていて、もう昼食の準備に入っている模様。缶コーヒーのプルを開けてひとくち。少し甘すぎる気がするが、今日はそれでいいように思う。プレッツェルの小袋は封を切らずに、ジャケットの内ポケットへしまう。デスクのひきだしにストックするつもりだ。ちびちびと缶コーヒーを飲みながら、何を見るとはなく、ただぼおっと正面を眺めていると、誰かがまだ暗い食堂を横断してゆくのを見つける。厨房の明かりの逆光で黒い影となったその人物はスーツ姿で、その太さからプラスチックフレームと思われる大きな眼鏡をかけており、表情はよくわからなかったが、八人掛けのテーブルや四名様向きの丸テーブルの間を縫うように歩いて食堂を横切ってゆき、突き当たりにある非常ドアを開け、出ていってしまった。僕はあの非常ドアに施錠がされていないことにいささか驚き、実のところ、あんなところに非常ドアがあったなんて今の今まで知らなかったが、あんなところから人が出入りできるということにもいささか驚いた。缶コーヒーを飲み終えると、柱に据え付けられた時計に目をやる。七時半。自席のあるフロアまで戻るとしよう。

再び自席。フロアには椅子にだらしなく腰掛けたFの姿。座席からずり落ちてしまいそうなほど浅く腰を掛け、入力装置に腕をだらりと伸ばしている。差し詰めネットワーク上のお気に入りの場所を巡回しているところだろう。こちらを気にする様子は微塵もない。窓際の副室長は席からいなくなっていた。付近に目をやってみたが、どうも本当にいないみたいだ。このフロアは完全な禁煙で、別フロアにある喫煙ルームへでもしけこんだか。その代わり、ジーンズ姿のエンジニアがいましがた出社してきて、いそいそ身の回りを整えていた。彼はまず、通勤用の紐靴からサンダルに履き替え、なにはともあれコンピュータの電源を入れる。セサミストリートに出てくる何かのキャラクターに似ている。あのジーンズ姿の名前は何だったっけ。えーっと。売店で数日おきぐらいに顔を会わせるくせに、僕は彼の名前を思い出せない。僕のほうも僕のほうで電子メールの返事を書いたり、スケジュールを修正したり、不要ファイルの削除をしたり、自分でも気づかぬうちに頭は実に集中した状態となり、日本製産業用ロボット並の高効率で日常のルーチンワークをこなしてゆく。途中途中で今朝届いたばかりのスポーツニュースやプロ野球の結果、芸能人ゴシップや各地で起こった事件事故の記事の要約なども押さえる。あっという間に時間は経過し、始業時刻が近づいていることを示すお決まりの音楽が鳴り始める。ブランデンブルグ協奏曲だ。フロアには次々従業員がやってくる。

午前中は資料室で資料や古い報告書などを読み続けた。興味深い資料、何かに使えそうな検査結果報告書、関連すると思われる専門書などを集め、閲覧コーナーに陣取り、ノートにメモを取ったり、図や表を複写機で複写してみたりした。アメリカドルの価値が下がると、入浴用のカモミール乾燥ハーブの売り上げが比例して上昇する、カモミールブレンドのハーブティーも軒並み売り上げが上がっており、今後、ドルの値動きには注意警戒が必要である、というレポートがあった。いったい誰がこんなレポートを書いたんだろう、と思いレポートの表紙を確認すると、なんとそこには副室長の名前があった。まだ副室長になる前の話だ。実のところ、カモミールティーは僕も自宅に買いだめしてある。ある時、必要にかられて寝る前に飲んだりするようになったのだ。そしてこの習慣が僕にとってよい方向に作用した。カモミールティーを飲み始める前までは、僕は何事においてもひどく気が滅入り、気持ちがそわそわとして落ち着かず、結果、さまざまなアルコール飲料を試した結果、量産されていて入手しやすいブレンドウイスキーを、毎晩ソファに掛けて電源の入っていない旧式のテレビ画面を見つめながら飲んでいたのだ。そうすることでそわそわした感じは消えたが、今度は耐え難い無気力感が支配的になり、なかなか抜け出すことができなくなってしまった。そんな時、カモミールの乾燥ハーブが田舎から大量に送られてきたのだ。農家の人からもらったが、処分に困って送ることにした、とのことだった。送られてきた段ボール箱には乾燥ハーブのビニールパックがぎっしり詰まっていた。親切にもハーブティーを煎れるガラス製のティーポットも緩衝材にくるまれて同封されていた。ティーポットはずんぐりした鳩のような形をしていた。

カモミールのハーブティーを飲むようになり、少しブレンドウイスキーの量を控えるようになると、それまで不調だったコンピュータの調子が突如よくなり、テレビの映らないチャンネルが映るようになり、マンションの隣の家の猫が戻ってきたりした。猫は数週間ほど家出しているということだった。そう、ある夜、隣人が僕の部屋を訪れ、実は飼っている猫が家出をしたんです、最近、どこかで見かけなかったでしょうか、と突然言ってきたのだ。隣人は僕と年格好が同じで、眼鏡を掛けていた。残念ながら僕のところには来ていませんね、と僕は開けたドアを左手で支えながら答え、もし見かけたら、ご連絡しましょう、と気軽に請け合った。彼女は自作の尋ね猫のチラシを持ってきていた。そのチラシを僕に手渡すと、煮干しがめっぽう好きなんです、と言った。どんなタイプの煮干しですか、と僕。どんなタイプのものでも食いつきます、と彼女。チラシに貼られた猫の写真は二枚。顔の大写しと全体のわかるもの。猫は、鼻の左脇にぶちがあり、どちらかというと人相の悪い顔をしていた。大きさは中程度。痩せても太ってもいない。僕はその日から皿に盛った煮干しを玄関先に置いて仕事に出ることにした。そしてカモミールティーを飲み、ウイスキーの摂取を控え始めて数日後、突如映るようになったチャンネルの番組を見ながらソファに寝そべっていると、部屋の呼び鈴が鳴ったのだった。出てみると眼鏡の隣人に抱えられた人相の悪い猫がいた。ここにいたんです、と彼女は言った。ここ? 玄関前に出して頂いていた煮干しをくわえて、ここにいたんです。彼女は煮干しを盛った皿を指さした。そんな訳で、カモミールティーを飲み始めてまもなく、猫が戻ってきたのだった。

途中、内線電話で呼び出されたりすることもなく、僕は資料室での作業に集中した。気がつくと昼時を過ぎていた。綾子嬢が僕を呼びに来た。綾子嬢はセグメントの同僚で、僕よりもいくつか年上で、色気がありすぎる女性だった。書架の陰で奥まったところに積まれた、ほとんど見向きもされず、いつの日かまとめて処分される日を待っているだけの資料を、自分だけのひそかな探究心を満たすべく、あえて掘りおこしている最中だった。僕は、胸元にフリルのついた濃紺のブラウスを着ており、下は単調なところがまったくない光る素材で出来た黒のタイトスカートを履いた彼女を見上げた。ブラウスの上には水色の化粧石が鎖で繋がった長いネックレスが彼女の胸のふくらみの上を這うように提がっている。綾子嬢が、首をかしげるようにして一言、お昼をご一緒しませんか、と言うので、僕はやおら立ち上がり、何をごちそうしてもらえるんでしょうか、と切り返した。綾子嬢は僕の胸を小さな拳で小突いた。するとプレッツェルの袋がぐしゃりと音を立てた。驚く綾子嬢。僕はプレッツェルの袋をジャケットの内ポケットから出してみせる。何それ、と彼女。プレッツェルです、と僕。僕らはお互いに見合って笑い出す。残念ながら、調べ物があって、手が離せないんです、と僕は言う。綾子嬢は、慈悲深く、天国的で、見るもの誰をも虚脱状態に陥れるような笑顔で微笑むと、そう、残念ね、と言って資料室から出て行った。僕はプレッツェルの封を切り、割れたプレッツェルのかけらをつまんで口に放り入れ、塩のついた手を払い、資料読みの続きを始めた。我ながら禁欲的な態度に人知れず陶酔せずにはいられない。

資料室から出ると夜の九時を過ぎていた。僕は結局午後もずっと資料室に籠もっていた。窓の外は土砂降りの雨だった。僕は今朝端末のニュースで見た天気予報のことを思い出した。そう、その通り雨になったのだった。資料室には窓がなく外の様子を気にすることもないので、気づかなかったし、今日、午後から雨になるということも忘れていた。僕はぶ厚いガラスの向こう側で音もなく荒れ狂う嵐をしばし眺めた。副室長をはじめ、このフロアの人間はほとんどいなくなっていた。しんとしたフロアはところどころ節電の為に消灯されており、遠くにひとつ、ふたつ、そして僕の席があるところだけに明かりが灯っていた。例のエンジニアの席にも明かりがついていたが、本人の姿は見当たらなかった。機械室をうろついているか、喫煙室で油を売っているかしているに違いないな、と僕は踏む。僕は自分のデスクに戻り、コンピュータの画面の上で球体がひっきりなしに色や形を変えながら、増殖してゆき、やがて飽和し、白一色になるスクリーンセーバーから、シフトキーを押下してログイン画面を呼び起こし、画面ロックを解除する。今朝もそうしたように、再度メールやニュース、仕事関係のスケジュールや掲示板をチェックする。おおよそ問題なしと判断。僕は、気晴らしにビル内をぶらつきに出る。

照明を半分落とされた廊下は薄暗かった。フロアに残っていた何人かが廊下を小走りで走ってビル内を散歩中の僕を追い越してゆき、やはり半分照明を落とされて薄暗いエレベーターホールへと消えていった。天井に埋め込まれたスピーカーからは退社を促すイージーリスニングにアレンジされたビートルズのビコーズが流れていた。僕は非常階段へ入る鉄製の扉を開け、非常階段で地下階まで下ってゆく。退社の合図であるビートルズが階段内で小さく反響していた。非常階段を使ったのは、夜の九時を過ぎると、各フロアの居残り組が一斉に帰宅し始めるのと同時に電気工事の業者や清掃業者の人間が各の作業をするためにエレベーターを使って階を移動し始めるので、エレベーターがなかなかやってこなくなるからだった。五階分降りて地下階につく。食堂の厨房にはまだ明かりが灯っていた。明日の仕込み作業か、大がかりな掃除か、それとも設備のメンテナンスか何かか、人影は見えず、蛍光灯の眩しすぎる明かりが煌々と灯っているばかり。もしかすると夜はいつもこのような感じで明かりが灯っているのかも知れないな、と僕は考えた。この時間に地下へ降りてきたのは実のところ、今日が初めてだった。食堂と通路を挟んで向かいにある売店は完全に営業を終了して入り口の自動ドアは閉まっており、商品棚や冷蔵ケースの並んだ店舗内は暗く、わずかに保冷中を示す小さなランプ表示や庫内温度のデジタル表示、壁に据えられた非常口を示す緑色のライトボックスだけが光っている。売店のレジカウンターあたりはカバー代わりのシーツが何枚も掛けられていた。シーツはそれぞれが少し小さ過ぎて、カウンターの上に置かれたシュガーレスガムの紙箱やスティック付きキャンディーのディスプレイは被せたシーツの下からはみだしている。売店入口はガラスの自動ドアが閉じられていて、下にある鍵がかかっていることは明らかなように思えた。それでも僕は売店の閉じられた自動ドアの前までいって、上部に設置されている赤外線センサーに我が身をさらして、自動ドアが開きはしないか確認してみた。自動ドアの内側にはウェルカムマットが雑によけられており、そのそばに手書きポップが裏のセロテープの輪がついた面をみせてむなしく床に落ちていた。もちろん自動ドアは開かなかった。当然併設されたイートインスペースに入ることはかなわなかった。自動ドアの前に立ち、中のイートインスペースをよくよく眺めた。カウンターに沿ってスツールが整然と並んでいた。椅子は座面にビニールレザーが張られた安物で、中には脚の部分がすこしいがんでいるものもある。明日の朝もきっと僕がそこに腰を掛けて、缶コーヒーか何かを口にするに違いないのだと想像した。

僕がオフィスビルを出たのは、それからまもなくしてからだった。地下から階段で自席のあるフロアまで上っていった。フロア内はいよいよ人気がなくなっていた。どうやらエンジニアも帰ってしまったみたいだった。自分が最後のひとりなのかどうかは、判然としなかった。たとえば僕が資料室から出てきた後で、入れ替わるようにして資料室に籠もった輩がいたとしてもおかしくはなかった。そんな心配から、照明のスイッチボックスを操作してフロア全体の照明を消灯していいものかわからなかったので、フロアにぽつぽつと消し忘れて残っている蛍光灯の明かりはそのままにして、フロアを出た。真夜中になれば、警備員がやってきて、消し忘れた明かりを消して回るだろう。エレベーターで一階に降りる。意外にもエレベーターは待機していたかのようにすぐに開く。もはや清掃会社の人間も、ビル設備メンテナンスの人間も、どこかビルの裏側にでも消えてしまったかのようだった。一階も照明は半分だけ、普段は多くの人が行き交う通路とはいえ、いまは誰もいなかった。正面玄関はとうに閉鎖されていて、裏口を回ってビルを出てゆかなければならなかった。僕は裏口となっている鋼鉄製の重い扉を開けて外に出る。次の瞬間、雨に体を捕らえられる。大粒の雨の混じった強い風。ほとんど荒れ狂っている。僕は傘を差して歩き出す。しかし傘を普通に差して歩くことは出来ない。半分畳んで、風の抵抗が極小になるよう工夫しながら、倉庫脇の歩道を駅まで歩いてゆく。ヘッドライトを灯したトラックや乗用車が道路の水を蹴散らしながら倉庫街を行き来していた。道路にはヘッドライトやテールランプや街頭などの照明が反射し、滲んでいた。突風が僕の脇腹をえぐり、足元をすくおうとした。今朝、まだ暗い食堂を渡っていったのは副室長だったんじゃないだろうか、と僕は思う。今朝、副室長は僕が地下の売店に行くのと同じタイミングで地下に降りてきて、まだ暗い食堂に平静を装って侵入したのだろうか。奥まったところにあるとは言え、厨房には煌々と明かりがついているというのに、大胆にも食堂を横断するようにして渡ってゆき、非常口を開け、そこからどこかへ抜け出ていったのだろうか。それは何か正当な用事があっての行為なのだろうか。そうであれば、警備員のような見回り行為として、それは人にいくらでも説明できることだろう。問題は、そうではなく、秘密裏に、こっそりと非常口を使って、出て行かなければならないようなことが、あったのだとしたら。僕はそんなばかばかしい想像をしながら、駅へ向かって歩いていった。吹きすさぶ風、横殴りの雨、嵐の中を。


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