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baby baggy(1)

砂浜には雨が降っていた。僕は昼を過ぎても散歩を続けていた。ホテルの部屋で本や雑誌を読むのには飽き飽きしていたので、どこへでもいいから出かけて行きたかったのだ。朝目が覚めると、すぐさま着替えをし、ホテルの食堂でトーストとコーヒーをそそくさと平らげ、部屋に備え付けのポットでインスタントコーヒーを何杯分か作り、魔法瓶に詰めてから長いショルダー付きの鞄に入れた。そして外へ出た。駅前を抜け、繁華街を抜け、線路を渡り、産業道路を渡り、市井を抜け、松林を抜けると、海に出た。雨の降る浜辺は見るからに寒々としていた。ビジネスホテルで借りた、骨にところどころ錆びの出ている透明ビニール傘をさしていた。寒さで手がかじかみ、指に感覚がなくなると、柄を持ち替えた。やがて僕は雨に慣れてしまった。寒いことがあまり気にならなくなり、いつしか何時間でも海を見ながら歩いていられる気がしていた。水際に沿って歩いた。そして砂浜は湾曲しながら延々続いていた。

コート姿の男がベビーカーの押し手を持ち、海を見ながら立っていた。最初小さく見えていたその人影は、僕が浜辺を歩き進めるうちに少しずつ大きくなっていった。やがて男が持ち手を持っていたものは間違いなくベビーカーであることが認められるようになった。ベビーカーに幌はかかっておらず、よく見ると座席に子供が乗っていないことに気が付いた。男の周囲を見渡してみても子供の姿はなく、また他に子供を連れている人間の姿もなかった。僕は奇妙に思いながら、男の前を通り過ぎようとした。そのとき男が口を開いた。僕と男の目があった。

人生にはふた通りの生き方がある。雨降りの中を傘をさして行くか、雨に打たれて行くか。

ベビーカーの男は言った。子供の乗っていないベビーカーの座席には水がたまっていた。男は寒さで頬が赤くなっていた。額には雨に濡れた前髪がはりついていて、こめかみや鼻筋には雨がしたたり落ちている。僕はあまりに突然声を掛けられたことに驚き、立ち止まるのが精一杯だった。男の言った言葉はにわかに信じがたい、奇妙な台詞だった。映画の台詞か何かだろうか。僕は新しい映画も古い映画もほとんどみることがなかった。だから、もし有名な台詞だったとしても、気付くことはできないだろう。男に何か声を掛けるべきだろうかとも考えたが、僕はこの町に来てから会話らしい会話をしていなかった。ホテルの電話で外に掛けることもなく、もちろん外から誰も僕に電話を掛けてくることもなかった。フロントの内線さえなかった。声を出して何度かため息をついたが、これは言葉だったのだろうか。それでも僕は何か言葉にしようとした。しかし舌がもつれているような感じで言葉は簡単に出てこなかった。僕は思わず固唾を飲んだ。

ベビーカーの男の眉間にはかすかに皺が寄っていた。人生などと口にして、何か思い悩んでいるんだろうか。ベビーカーの中の子供は一体どこへ行ったんだろう。波の音がドドドと胸に迫った。ずっと歩き通しだった。思考はせばまり、同じところを無意味にぐるぐる回っていた。歩くのを止めると、波の音がひしひしと迫り、体の内側まで浸透してゆくのがわかった。

因果な商売だな、男はそう言って、ねずみ色コートのポケットから折り畳まれたビニールシートを取り出した。因果な商売とはどういうことなのか意味はわからなかった。男はビニールシートを広げ始めた。片側の隅を持つよううながされた気がしたので、僕は金具でできたホールのついた四隅のうちのふたつをつまんだ。正方形のシートを広げ、砂の上に敷いた。そして雨の中僕らはビニールシートに並んで座った。ビニールシートに雨が当たりぱらぱらと音を立てた。僕たちは二人とも膝を抱えるようにして座っていた。雨の砂浜には人気がなかった。長い竿を三脚に固定している釣り人もいなかったし、犬を散歩させる人もいなかった。僕は自分用に持ってきた魔法瓶を斜めがけ鞄から取り出し、カップになっている蓋にコーヒーを注いで男にすすめた。男はカップを受け取り、だまってポケットからウイスキーの小瓶を取り出し、手にしたカップに注ぐと、ゆっくりと時間をかけてひとくちを飲んだ。コートの袖口は雨に濡れ、完全に変色していて、水がしたたり落ちてきていた。一体、どれほどの間、男はここにいたのだろう。男は長いひとくちを飲み下すと、カップを僕の方に戻した。僕はカップを受け取った。カップの中のコーヒーにも雨が降りかかっていた。海はドドドと鳴り、地響きのように体の底で深く反響した。僕はウイスキーコーヒーをすすった。

僕らは何もしゃべらなかった。不思議と何かを喋らなければならないような気持ちにはならなかった。僕は少しずつ脱力してゆき、黙って雨の降る海を眺め、打ち寄せる波の音、地響きのような海の音を聞き続けた。ふと目を閉じると、雨は自分の細胞の中にまで降り募っているように感じた。目をとじたまま、カップに口をつけた。舌にはウイスキーのしびれが残った。全ては雨によって赦され、雨によって沈黙を強いられ、雨によってつながれてゆくようだった。記憶の中の映像がゆらゆらと頭の中を巡っていった。記憶の中の映像は、夏だった。強烈な日差し、蝉しぐれ、沈黙した市井、どこかの家から漏れ出てくるテレビの音、生い茂った草むら、小さな墓場、風鈴の音色、無風の中を流れる時そのもののような大気、どこだろう。いつごろのことだっけ。僕は本当にこんな風景を見たんだろうか。暖かな大気が頬をなでてゆくような感触がある。

次の瞬間、僕は畳敷きの部屋で壁を背に座っていた。傍らには大きな鉄製の灰皿。吸い殻は捨ててあり、汚れは水で洗い流され、窓の手すりに立てかけて乾かされた灰皿だ。それが傍らに置いてある。煙草のケースの上にはどこからか貰ってきたオイルライターが置かれている。手でまさぐりながら掴んだソフトケースから一本取り出して口にくわえ、ライターで火をつける。ひとくち目をゆっくり深々と味わう。何度か繰り返し、軽い陶酔感がそっとよぎるようにやってくる。開け放った窓の外はひどく明るい。のびやかな視線。高い空の向こう側まで。その空をのそのそと横断してゆく白すぎる雲。部屋には僕ひとり。数冊の本が散らばっている。どれも興味のつきたものばかり。退屈しのぎにどこかへ出かけようか。このまま眠ってしまおうか。天気予報では夕方から雨。横になって目を閉じれば、短い夢をいくつか、見るかも知れない。しばらくすればまた目が覚める。その時、木で出来た窓枠がガタガタ鳴っているはずだ。窓の外は雨。風で雨が部屋まで吹き込んできているに違いない。

目を開けると、隣にいた男はベビーカーごと消えていた。僕は立ち上がり、辺りを見渡した。足元からベビーカーを押していった車輪の跡がぐらぐらした線となって海へ延びていた。僕はその線を辿って歩いていった。そして線の先に横倒しになったベビーカーがあるのが見えた。雨は砂浜を黒く塗りつぶしていた。波打ち際へ向かって僕はゆっくりと近づいていった。波に洗われてベビーカーの車輪の跡はそこで尽きていた。男の姿はなかった。ベビーカーの前で僕はしゃがみ込み、倒れて宙に浮いた車輪に指をかけ、何度か回してみた。座席の一部分はビニールが破れて中のスポンジが見えていた。フレームもところどころに目立つ傷があり、幌の部分は砂をかぶっていて、駆動部分には海草がひっかかっていた。僕はベビーカーを起こし、押し手の部分を握った。あてはなかった。僕はベビーカーを押して歩き始めた。


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