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jet-lag

飛行高度3万5千フィート、君はラグの中にいる。気温マイナス40度、機内は低いうなりが絶えずしている。時間をとどめるために、生存するのか、トカゲのように生きるのか、今はうまく考えることができない。君は眠りたいと思いつつ、ぼんやりとしながら、音よりも少しだけ遅く移動をしてゆく。

機内食を断って、録音したフーガやインベンションを耳栓代わりにして聞きながら、眠ったふりをしている。さっき口にしたウイスキーの香りが舌に残っていた。頭蓋に浮かんだ小さな脳片たちが軽くしびれていて、すこしずつ記憶をしめつけるワイヤーがゆるんでくる。プレーヤーの中で楽曲はランダムに並び替えられる。そして楽曲の中で右手と左手が追いかけあいながら、魔術と手品のあいのこのような音楽を奏でてゆく。ミネラルウォーターのボトルを口に運ぶ。機内の空気は乾燥して、大きく息をすると肺が破れそうな気がする。ああ、置いてきた東京がもう愛おしい。東京ではもう日は落ちて、夕闇がネオンやイルミネーションや電飾パネルが作り出す光の洪水に飲み込まれていることだろう。人の群れが不安定な分子のように次々と新しい組み合わせを作り出してゆく。そして君はイオン化して、隣人になり、他人になり、やがて分裂して、君ではなくなる。彼女はもう部屋に辿り着いただろうか。それとも、イオンの波に飲まれてしまっただろうか。フーガ、フーガ、インベンション、アリア・・・そう、そして音がゆっくりと君を追い越してゆく。声という声が君の名前を呼びながら遠ざかってゆく。遠ざかるのは君の名前なのか、それとも幽霊たちの他愛のないおしゃべりなのか、ほんとうにはよくわからない。いくつかの声、帯域も抑揚も異なる沢山の声、それからその背後にある音、雑踏、風の音、風に木々がざわざわと揺れている、バイクの走り去る音、足音、交差点、信号が変わる、足音、そして君の耳元をゆっくりと追い越してゆく声という声、ああ、聞き取れそうだ、君は耳をすます、すると映像は動き続け、音が消える、どうしたんだろう、という君のひとりごと、これもミュートだ、それから映像の中に君が抜け出してゆく、君の視界に君が現れる、そして無音のまま交差点を遠ざかってゆく、そして我に返る。空気の振動音、時々レベルや調子が変わる。周囲の小声の会話が漏れてくる。窓の外は白い雲の海原、機体は強烈な光の中を飛んでいる。

先週、完全に絶望を理解できたような瞬間がふいに訪れた。なんというかそれは、間延びした瞬間とでもいうべきもので、深夜のタクシーから見た首都高のめくるめく夜景で始まり、首都高を抜けて、がら空きの一般道を猛スピードで走り抜けながら、完全な時間があるように思えたのだ。時間は止まったように思えた。というよりも時間が止まっているということを知ってしまったような感覚だった。ふと、この理解をとどめたくなり、運転手に声を掛けてタクシーを停車させて、料金を支払って降りてみると、その感覚は終わってしまった。するりと感触がなくなり、まるで嘘のように消えてしまった。時間を引っ張る力と時間に引っ張られる力が均衡したような状態。そしてそこに浮かんでいるような感覚。残されたように目の前には夜が(経緯からすると当然だったが)広がっていた。しかし、夜だということ以外に確実なものはなく、いわば、そこは日常の延長で考えてみると説明のつきにくい、よくわからない場所だったはずだが、空気を吸い込むと、それはそれで、何かすっきりとしたような気がした。理解不能となった物語を、裏返すことができたような感覚だった。近くにあったファミリーレストランに君は入る。コーヒーを注文する。ここで待てばよいのだ。

男が現れる。伏目がちで、まともに顔をあげないが、迷わず、君のテーブルに向かってきた。するりと体を沈ませるように、君のいるボックス席に掛けると、テーブルの上の存在しない一点をみつめながら、こう言った。「あなたが見たものを、私も見た」君は激しく動揺するが、同時に心の中で冷静にこの瞬間をとらえようとする気持ちが沸き起こり、爆発しそうな恐怖心を押し殺しながら、男を見つめる。そのまま、男が続けるのか、わからなかった。男の髪はぼさぼさで、緑と黒のチェックのシャツを着ていた。店員は男が店に入ってきたことに気づかなかったようだ。そしてはっとした。このシャツは以前君が着ていたシャツだった。なぜ、そのシャツをこの男が着ているのか。この男に君は見覚えがない。何度も頭の中をチェックし直して、やはり、君はこの男を知らない、と断言できると思う。「あなたが見ているものは、私が見ているものに過ぎないし、私が見ているものは、君が見ているものに過ぎない」男は君と関わりがあるということを、前提としているような口ぶりだった。それは君が知らない君がひとりでに流通して、男はただそれを正当な手段で手に入れただけだと主張しているようだった。男の目は、君の身に覚えがないことでも、それは君には関係がないことだ、と言っていた。男は君の飲んでいたコーヒーのカップをつかみ、指でカップの縁をなぞって円を描いた。「こうやってつながっている」男は少し微笑んでいるようだった。自分にははっきり理解できた、と納得しているような表情だった。もはやどんな反証も成立しないことを証明できた、というような自信に満ちているようにも見えた。不敵な笑みで、君を試すような表情だ。まだ何かあると、あなたは言うだろうか。しかし、その笑みはすっと消えた。男は先に進めようとしていた。何かをだが、もちろん君にはわからなかった。激しい動揺のせいで、自分の意識が何かの力でねじまげられているような気がした。こういったときに、自分を取り戻せるようなルーチンがあればいいのに、と君は考える。男はテーブルの上をじっと見つめたまま、そこに見えている何かに感激しているようだった。おお、おお、と男がうめく様に言う。

「それから、あなたが見てきたものが、ここにある」男はテーブルの下に隠し持っていた拳銃をテーブルの上に出して、銃口をテーブルに向けた。男はテーブルの上を食い入るように見ている。「見えてきました。あなたは交差点を歩いています。信号が変わる」君はレストランの店員がやってくるんじゃないかと、気が気じゃなくなるが、テーブルの上の男の視線の先にほんとうに何かが見えているのかも気になる。「ああ、恐ろしい」男はテーブルを見つめながら、つぶやく。「怖い」君はテーブルを覗き込む。白っぽい光がゆらいでいる。そしてぱっと像を結ぶ。たしかに見える。男は恍惚として目を細める。「ああ、すいこまれそうだ」「・・・」「ああ、すいこまれる」男はテーブルの表面に顔を近づける。テーブルに鼻がつくかという瞬間に男はすくっと体を起こし、こめかみに銃口をつけた拳銃の引き金をすばやく引く。銃声が響く。コーヒーカップがびりびりと振動する。

機内放送が30分後の着陸を告げる。空港で求めたポケットウイスキーはほとんど空になった。ヨーロッパは夜だった。東京の夜を脳の中に閉じ込めて、ヨーロッパでふたたび脳からひろげたような気分だった。また夜をやり直すのだ。君はトイレに立つ。狭いセルの中のゆううつな明かりの元、鏡の中にいる緑と黒のチェックのシャツを着た君は、死んでいるかのように血色が悪い。地上に降りたら血になる食事をしよう。それからホテルを探すとしよう。そこにはベッドがあり、その先には深い、夢もみないような深海の眠りがあるはずだ。

2006.3.31
2006.4.10
2008.5.26


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