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hane2
for yono

ある冬の夜、空が凍えて、星がふるえていた。雨戸をひっぱりだそうとして部屋の窓を開けると体が硬直した。かじかむ指でなんとか雨戸を引き出す。これで寒さをしのげるのだろうか。部屋はしんと静まり返った。

先週、天気予報で寒波がやってくると言っていたのはほんとうで、僕のアパートの部屋は氷でできているかのように冷たかった。僕は失業中で、その夜はこの絶対的低温の状況をしのぎきるために大きなグラスの底から4センチ程注いだウイスキーを読書の合い間合い間に飲んでいた。大きくシップすると舌に刺激が走り、そのあとでじわりと体温がやってくるような感じがした。僕はチェコからフランスに亡命した作家の「不滅」という小説を読んでいた。そこに部屋の電話が凶器になるほどの音量で鳴った。深夜だった。僕はすこしおびえながら受話器を取った。

電話の向うではエアロビクスの教習ビデオのような音楽と掛け声がしていた。真冬の夜の冷酷なまでの室温とは不釣合いな、陽気で健康的な雰囲気が伝わってきた。リズミカルな音楽の中から声がした。向うは大きな声を出しているようだったが、言葉のくぎりや調子がはっきりせず、うまく聞き取れなかった。僕は何度かもしもし、と切り返した。声の主はヨノちゃんで、どうも「羽根が生えた、羽根が生えた」と言っているようだった。「羽根が生えたって、何に羽根が生えたってこと?」たぶん僕もどなる必要があったのかも知れない。どなるというほどではなかったが、相手につたわるように、大きな声でくぎりをつけてそう言った。ヨノちゃんは僕に一声も伝わっていないと思っているのか「羽根が生えた、羽根が生えた」とくり返していた。そしてその後でワンツー、ワンツーとエアロビクスのダンスステップを踏むよう促す掛け声が続いた。

せかせかと次のパートに移ってゆくエアロビクスの音楽はいよいよ最高潮のクライマックス箇所に到達しているようだった。本プログラムをテレビの前のみんなと一緒に踊りながら進行しているであろう先生が奇声を上げるのが電話越しに聞こえてきた。そんな中、両方向から問題を出し合っている伝言ゲームのようにヨノちゃんと僕の会話は成立しなかった。そして受話器を置くときに発生する不穏なノイズとともに電話は切れた。それはいかにも唐突だったが、ヨノちゃんは電話に限らず、何事においても唐突だった。まるで世界に答えはそれひとつとでも言うかのように。僕は考えてしまった。なんだろう。羽根が生えたとは。羽根、かね、あめ、生えた、あえた、かえた、さえた、僕は聞き取り得る言葉を想像し、いろいろと組み合わせてみたが、やはり羽根が生えたようだった。真夜中だった。僕はヨノちゃんのところへ向かうことにした。折り返しヨノちゃんのところに電話するとまったく通じなくなってしまったからだ。これも奇妙なことだ。ともかく何か問題が発生していると考えられなくもなかった。「不滅」を床に置いて、グラスを持って立ち上がり、大きくグラスをかたむけて、底に残っていたウイスキーを飲み干した。ジーンズに灰色のセーター姿だった。手を加えるべきか、5秒悩んだが、古着屋で買ったトレンチコートを引っつかみ、袖に腕を通しながらスニーカーを履き、外へ出た。

深夜で電車もなく、アパートから少し歩いたところにある大通りでタクシーを拾わなければならなかった。ここから三十分くらいはかかるはずだ。以前、電話でヨノちゃんに呼び出されて行ったときにはその位だった。そのときは部屋にゴキブリが出たという理由だった。僕は念のため途中のコンビニでゴキブリを殺す殺虫剤をふたつ調達し、つまり二丁拳銃の使い手となってこの緊急事態にそなえることにした。コンビニの前でタクシーを捕まえ、そこから約三十分ほどかかったはずだ。ヨノちゃんの部屋についてみると、すでにゴキブリの姿はなく、食器棚の背後や水周りを棒のように丸めた新聞紙でこづきながら捜索したが、隠れたゴキブリはなかなか出てこなかった。ヨノちゃんは僕が捜索を続けている間、しっかりとドアを閉じた奥の部屋に身を潜めていた。部屋からはしばらくがさがさと音がしていた。閉めたドアの下にできるわずかな隙間を、ゴキブリが入ってこないように新聞紙や雑誌で埋める作業をしているのだった。「大丈夫。出てきたらすぐにやっつけるから。」「うん。」僕らはドアごしに大声で言い合った。僕は明かりをつけたまま台所の床に座って待機した。丸めた新聞紙の棒を再び広げてそこにあった記事を読んだり、床材の奇妙な模様をじっと見つめてみたり、時折聞こえる別の部屋のドアの開閉音に耳をそばだてたりした。そして明け方、ガスコンロの隙間からまんまと現れ、シンクを警戒しながら横断ているところを、僕は両手に持ったスプレーのうち利き手に持ったひとつを使って、まず脚を止めるために正確にターゲットに命中するよう慎重にノズルの照準を合わせて噴射した。緊急事態にゴキブリはシンクを狂ったように駆け回り、驚異的な生命力でシンク側面を登り出したが、登り切ることはできず、そっくり返って底に落ちた。そこに絶対的な死をもたらすために、仰向けになったターゲットに両手に持ったスプレーを同時に噴霧した。僕は確信に満ちながら換気扇を回すスイッチを押した。もがきながら、やがて、それは降参のつもりだったのか、後世での復讐を誓っているつもりなのか、触覚だけが力なく揺れるだけとなり、そのまま音もなく息絶えた。「終わったよ(何もかも)。」僕は常の声でドアごしにつぶやいたが返事はなかった。そのときすでにヨノちゃんは寝てしまっていたのだ。

タクシーは冬の夜の中を軽快に駆け抜けていった。空っぽの市井を減速もろくにせずに通り過ぎ、人気のない並木通りで足止めをくらわせようと色を変える信号を無視して先を急ぎ、夜間工事の通行制限にひっかかり、警備員に誘導されながらのろのろとガス管工事の現場を通り過ぎ、コンビニの煌々とついた明かりを眺め、夜の中をうろつく輩がいるのに気づき、耳を劈くような安っぽい爆音を立てて通り過ぎてゆくバイクを横目に、タクシーはふわりと浮くようにスピードを上げてゆく。僕は殺虫剤の入ったビニール袋をひしとつかんでタクシーの後部座席に座っていたあの夜のことをぼんやりと頭の中で反芻していた。部屋を出た時刻を覚えていた。そう、あのときと同じようにやはり約三十分でつくことが出来たのだった。

ちなみにこのアパートは今はなく、周辺の土地と合わせて中規模のマンションに建て替っている。去年、偶然その場所を通ったときに僕はそのことを知ってしまった。

当時のヨノちゃんのアパートには小さな門があって、鍵がない場合には、これを飛び越えて敷地内に侵入する必要があった。鍵を持たずに、かつ門を飛び越えないでゆく方法もあった。そのアパートの住人とその関係者の数名しか知らないものだったが、秘密としては平凡だった。もちろん僕もそれを知っていた。柵の内側から延ばす先とは逆を向きながら腕を延ばすと、門の閂に手がとどくのだ。でもこのときは急いでいたので、僕は門を派手に飛び越えてみせた。おそらくウイスキーが助力してくれたんじゃないかと思う。

アパートの敷地に侵入すると僕はおそるおそる外付き階段をのぼっていった。鉄製の簡単な造りの階段はステップを上がる度に建材がきしむ音がした。ヨノちゃんの部屋は二階にあった。部屋の前まで来て、呼び鈴を鳴らすが返事はない。さっきの電話にあったようなエアロビクスをしている気配もない。電気も点いていないようだ。僕は呼び鈴を数度鳴らした。そして試しにドアノブに手を掛けてみるとドアはなんなく開いた。鍵はかかっていなかった。

部屋に踏み入る。真っ暗で、人がいる気配はない。そこには誰もいなかった。靴を脱ぎ、かつて彼女がゴキブリの侵入を阻止しようと立て篭もった奥の部屋へ。部屋のドアは開いていた。僕は壁を探って電気スイッチのパネルを見つけるとひと呼吸おいてからスイッチを入れた。ぼっと燃えるように部屋の空間が浮かびあがる。彼女の部屋だった。部屋の中央に血で汚れた白いしっかりとした羽根がふたつ落ちていた。まるで白鳥からもぎとったような大きさだ。僕は近づいていってその羽根をつくづくながめた。模型なのか、本物なのか、僕はじっさいに手でふれてたしかめようと思って、羽根に手をのばしたその瞬間、後頭部に衝撃が走った。僕は反射的に頭を抑えてころがって体をよじって逃げた。体をまるめて次の攻撃にそなえた。そうしている内に意識が遠退いていった。

鈍い痛みの中で目がさめる。ふと自分が自分の部屋ではなくヨノちゃんの部屋にいると気が付く。体を起こそうとするが首に激痛が走る。どうなったんだ。ヨノちゃんはいない。なんとか体を起こして、首の回りを確認したかった。洗面所に向かう。よろよろと柱や壁にすがりながら、洗面所の電気を点ける。鏡の中の自分を見て目を疑う。僕の背中に羽根が生えていた。背中を鏡に映してみる。確かに昨日みた白い羽根が僕の背中についていた。


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